「チェルノブイリ」から30年〜歴史の転換点に起きた事故を、私たちはどう考えるべきか

 ●原発事故は「真実のない国家」で起こる

 1986年4月26日、現地時間深夜1時23分にその惨劇は起きた。ソビエト連邦・ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所4号機で、臨界運転中の原子炉が暴走を始める。初めに水蒸気爆発、続いて水素爆発――爆発は2度発生した。100%フル出力で運転するか、全く停止するかのどちらかしかできない原子炉で、通常運転中の出力調整が可能かどうか試すという、極めて危険かつ無謀な「賭け」の結果は前代未聞の大事故であった。

 事故を起こした原発の当時の正式名称は「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」であった。その名称は「共産主義とはソビエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉に由来する。

 社会主義ソ連で、運転開始からまだ3年しか経っていなかった「ご自慢の原子炉」での事故だけに、当時、ソ連の政府機関は一体となってこの事故を隠そうとした。しかし、希ガス化したコバルト60を初め、多くの放射性物質が北欧諸国で相次いで観測される。このコバルト60の融点は1492度、沸点は3185度だ。千数百キロも離れた北欧諸国まで、沸点が3185度の物質が、大気中で冷やされながらもなお希ガス状のまま到達する――核兵器級の大爆発でなければこのような事態はあり得ない。多くの核種を観測したスウェーデン政府は、当初、自国内での原発事故を疑ったほどだ。しかし同国内の原発に異常はなく、風向データなどから、事故はソ連国内で起きたとの観測が流れ始めた。

 ソ連の政府機関・メディアは沈黙を守り続けていた。チェルノブイリ原発から至近距離にあり、後に全市避難に追い込まれる原発労働者の町プリピャチでさえ、市民が当局から事故発生を告げられたのは36時間後。何も知らされないまま、自宅マンションの屋上から燃えさかるチェルノブイリ4号炉を眺めている住民さえいたという。こうした市民の多くは急性放射線障害で亡くなった。モスクワでは5月1日、社会主義国家にとって最も記念すべき日であるメーデーの集会・デモが通常通り行われ、多くの市民が参加した。スウェーデン政府からの問い合わせによって、事故を外国政府に知られたことを悟るまで、ソ連政府が事故発生を公式に認めることはなかった。

 当時のソ連の情報隠蔽ぶりを物語るエピソードは枚挙に暇がないほどだ。この前年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、あまりに情報が得られないため、極秘に車を飛ばして党機関紙「プラウダ」(ロシア語で「真実」の意)編集局に駆け込んだが、そこでもまともな情報は得られなかったという。「イズベスチヤ(ソ連政府機関紙。ロシア語で「報道」の意)に報道はなく、プラウダに真実はない」とささやくソ連市民のアネクドート(小話)が正しかったことが、図らずも実証される形となった。

 この直後の1986年夏になって、ゴルバチョフは突如、「グラスノスチ」(情報公開)の開始を宣言する。チェルノブイリ原発事故での徹底した情報隠蔽が、ゴルバチョフにグラスノスチを決意させたのだ。当時、知識人を中心に読まれていた雑誌「アガニョーク」(ロシア語で「灯」の意)のコローチチ編集長は、ゴルバチョフから「誌面に何を載せるか、いちいち党に相談に来るな。すべて自分で判断せよ。ただし、保守的な立場からだけは離れるように」と申し渡されたという。

 ●キエフの子どもたちを疎開させたソ連政府

 福島第1原発事故で、放射性物質による健康への影響を心配する人たちを中心に、福島から子どもを避難させるべきだとの声が上がり、それは今も続いている。30年前のチェルノブイリで事故当時、どのような状況だったのか見てみると、興味深い事実が浮かび上がった。

 ウクライナの首都・キエフの学校では、事故後も変わらず通常の授業が続いていたが、事故から約半月後の5月中旬、事態は急変した。高校受験を控えていた中学校の最高学年(日本の中学3年に相当)を除く全学年の小中学生が、当局の判断でバスに乗せられ、キエフからできるだけ遠い場所に送り込まれた。当時、小学生だったオリガ・ホメンコさん(女性)は、自分の行き先が「クリミア半島の保養地」だったと証言する。

 クリミア半島の保養地に着くと、全員、着ていた服を脱がされ、取り上げられた。同時に新しい衣服が支給された。汚染された衣服からの被曝を防ぐため、当局が講じた措置だった。子どもたちだけで過ごした共同生活で「クラスの絆は深まり、団結心が養われた」とホメンコさんは言う。疎開先で、教師も医者も皆親切だったそうだ。

 チェルノブイリ原発では、当局が大量動員した「リクビダートル」(作業員)たちの、命と引き替えの収束作業のおかげで、放射能漏れを10日後にはほぼ沈静化させることができた。環境中の放射線量も低減し、子どもたちは夏休みの終わる3ヶ月後にはキエフに戻ることができたという。

 この「学童大量疎開」を決定し、指揮したのは一体誰だったのか。決定までにどのような議論があり、どのような経過をたどったのか。

 1986年5月7日、ウクライナ共和国政府内で「子どもたちの疎開に関する検討会」が開催された。イズラエリ・国家水文気象委員会議長と、モスクワの中央政府から送り込まれた「御用学者」イリイン博士は「キエフの放射線量は避難基準に満たず、避難は不要」と主張、避難をしないよう求めた。これに対し、ウクライナ最高会議議長のチェフチェンコ氏(女性)は「同志イズラエリ、もしキエフにあなたの子どもや孫がいたら、あなたはどうしますか。同じように何もせず、この町で暮らせますか」と主張し譲らなかったという。この2日後の5月9日、ウクライナ共和国政府は疎開の実施を決断した。「避難は不要」と主張するモスクワの意向を考慮して、疎開ではなく「夏休みを繰り上げ、サマーキャンプを実施する」との発表だった。

 人口300万人の大都市キエフから、25万人の子どもたちが「疎開」した事実は、日本では驚くほど知られていないが、この背景には、身を挺して避難の必要性を訴えた女性最高幹部の行動があった。命を最優先に考える女性を、真の意味で決定権のあるポストに就けていたソ連政府のあり方が、子どもたちを無用な被曝から守る上で重要な意味を持ったのである。

 ひるがえって、日本ではどうだろうか。右翼の首相が上からまやかしの女性「活用」を唱えても、せいぜい、なんの権限も持たない「お飾りポスト」に従順な「女性」が配置されるだけ。真に決定権のあるポストは人の痛みよりも金儲け優先の男性(俗に言うオッサン)で占められている。女性政治家にしても従順で小粒な人ばかり。チェフチェンコ最高会議議長と同じ行動を取れる女性「政治家」が日本に果たしているだろうか。

 しかし、そんな日本にも小さな変化が起きつつある。福島県郡山市の福島朝鮮初中級学校が、2011年5月から12月まで、児童生徒を新潟朝鮮初中級学校に疎開させた事実がある。2015年4月には福井地裁による大飯・高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分決定、また2016年3月には大津地裁による高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分決定が出されているが、この2件の仮処分決定が、いずれも3人の裁判官のうち2人を女性が占める法廷で出されたことを、筆者は偶然とは思わない。「オッサン」どもがのさばる古くて固い日本社会で、厭わずに変化を起こしているのは女性や朝鮮学校などのマイノリティである。新しい時代を切り開くのは、いつもこうしたマイノリティだ。それゆえ、全国各地に散らばっている原発事故からの「自主避難者」たちは、胸を張っていいと私は思う。

 ●30年経っても食品測定を続ける現地

 チェルノブイリ原発から北東に約175キロメートル離れたロシア・ブリャンスク州ノボズィプコフ。ベラルーシとの国境に接する町では、原発事故から27年を経過した2013年の段階でもまだ食品測定が行われている。「露天で売られている物はきちんと検査されているかわからないが、公認の市場で売られている物はきちんと検査されている」と、地元住民が日本からの取材班に対して答えている。

 こんなに長期間、食品検査をする必要があるのかと思う人もいるかもしれない。だが結論を言えば必要だ。本稿筆者の手元には、やや古いが、2007年1〜11月に、ウクライナ共和国ナロジチ地区(チェルノブイリから約80キロメートルの場所にある)で行われた食品の放射能検査のデータがある。事故後21年経ったこの時点でも、最も放射性物質が蓄積しやすい「キノコ類」で、検出された最高値はなんと1キログラムあたり64,400ベクレル。この数値は、福島原発事故後に「改悪」された基準で処理が可能となった放射性廃棄物の上限値(放射性セシウム値が1キログラムあたり8,000ベクレル)の8倍に当たる。キノコ類に次いで放射性物質が蓄積しやすい「ベリー類」で1キログラムあたり4,300ベクレルが検出されている。もちろん現在の日本の基準では出荷停止だ。この数値を示した文書にはナロジチ地区保健検疫所所長代行、M.V.ラドシコ氏の署名がある。ウクライナ政府が公式に認めた数字だ。

 現在、福島ではほとんどの食品の放射能検査でND(不検出)が続いていることから、早くも食品検査を廃止して「風評被害」を防止してはどうかという声が出始めている。こうした声は国や自治体に留まらず、自称「復興支援」団体からも聞こえてくる。そうした主張をしている人たちは、このナロジチでの現実をどう見るのか態度を表明すべきだろう。そもそも県などの自治体の食品検査は、今なおコメを除いて全量検査ですらない。放射性セシウム以外の物質に関しては測定もされていない。こうした事実を隠しながら、事故後わずか5年で食品の放射性物質測定を廃止することが正しいのかどうか。その答えはウクライナやベラルーシの現実が示している。放射性セシウム137や、白血病を引き起こすとされるストロンチウム90の半減期は約30年。チェルノブイリでさえ、こうした放射性物質は今年でやっと半分になったところなのだ。

 ●時代の節目に起きる大事故〜子どもたちの疑問に答えられるか?

 「ウクライナ共和国チェルノブイリ原子力発電所で原子炉が破損しました」。30年前の事故当時、ソ連国営テレビの看板ニュース番組とされていた「ブレーミヤ」(ロシア語で「時代」の意)で、事故をできるだけ小さく見せようと、当局が練りに練り上げたであろう「官製原稿」。それを読み上げる老いた女性キャスターの表情を私は今も忘れることができない。時代の渦中にいた当時高校1年生の私にはわからなかったが、今にして思えば、この老いた女性キャスターの疲れ切った表情こそ「滅び行くソ連最後の姿」を映していたのだ。

 チェルノブイリと福島、2つの人類史上に残る大事故はいずれも現在進行形だ。それがいつ「歴史」になるのか、答えを出せる者は誰もいない。これら2つの事故が教えてくれるのは、原子力発電所がいずれもその国、その社会の「科学技術の絶頂期」に建設され、衰退期に入る頃に最初の事故を起こす、という事実である。原発事故はその社会にとって科学技術における絶頂期が終わり、衰退期に入ったことを示すシグナルとみるべきだろう。チェルノブイリ事故の重荷に耐えかねたソ連は、事故から5年後の1991年に崩壊。事故の後始末はウクライナやベラルーシという弱小国家に押しつけられた。日本でも、十数年後か数十年後、「今思えば、やっぱりあの事故が歴史的転機だったね」と言われるようになると私は確信している。

 「誰が世界をこんなふうにしてしまったのでしょう?」――宮崎駿監督によるアニメ映画不朽の名作「風の谷のナウシカ」で、ヒロインのナウシカがこんな問いを発する。そこには人類による最終戦争から1000年後の世界が描かれている。1000年経っても「腐海」の汚染は解消せず、腐海の中ではたとえ一瞬たりとも装着したマスクを外してはならないとされる。宮崎監督が核戦争後の世界を念頭に置いていることは明らかだ。自分たちの手で腐海を生み出してしまった人々、原子力に関わってきたすべての人々は、未来の子どもたちが発する問いかけに決して答えられないだろう。

 私たちは、今後も自分たちが産みだしてしまった「腐海」と向き合い続けることになる。それには短く見積もっても数百年間は必要だ。チェルノブイリから30年、福島から5年。これを歴史と呼べるほど、人類はまだ進歩も反省もしていない。

 <参考文献>
 本稿中、キエフの学童疎開に関しては、「原発廃止で世代責任を果たす」(篠原孝・著、創森社、2012年)を参考にした。

(2016年5月22日 「地域と労働運動」第188号掲載)

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