軍政系与党を下野させた市民の「底力」
 歴史でたどるビルマ(ミャンマー)の過去、現在、そして未来

 「国民は選挙結果についてすでに理解している」。歓声を上げる大勢の市民を前にして、長年、自宅軟禁の身であったアウンサンスーチー氏は高らかに勝利宣言した。スーチー氏率いるNLD(国民民主連盟)の別の幹部も「私たちは政権を担うことができる」と自信を示した。「私は大統領の上に立つ」という、いささか勇み足めいた発言もあり物議を醸したものの、この国の民主化のプロセスが止まることはないだろう。

 国際社会からの圧力の中で、2007年から民政移管の準備作業に当たってきたテインセイン大統領の与党、連邦団結発展党(USDP)は敗北を認めた。軍服を脱いだ元軍人が率いる非軍政政党による暫定政権から、民政移管を前提とした「自由選挙」により選ばれた政党による政権へ――長年の苦難を脱しつつあるこの国・ビルマの今後の展望を、本稿では歴史でたどりながら占ってみたいと思う。

注)本稿筆者は、NLDが圧勝した1990年総選挙の結果を認めず、不当な独裁で政権に居座り続けた軍政当局によるビルマからミャンマーへの国名変更を認めない立場を取っている。民政移管後の新政権による新しい決定があるまで、旧国名「ビルマ」と表記することをご了解いただきたい。

 ●ビルマを扱った2つの映画

 日本人の中でも映画ファンの人々は、ビルマと聞けば「戦場にかける橋」と「ビルマの竪琴」の2作品を真っ先に思い出すのではないだろうか。前者は太平洋戦争中、ビルマを支配していた日本軍が連合国軍の捕虜を使って建設した泰緬鉄道(タイ―ビルマ間の鉄道)を舞台とするものであり、米英合作映画として1957年に公開された。泰緬鉄道の建設では、日本軍によって連合国軍の捕虜が強制労働に駆り立てられ、おびただしい死者を出した。主題歌「クワイ河マーチ」は運動会など今なおいろいろな場面で使われているが、本来ならこのような場面で気安く使うような曲でないことはもちろんである。第30回アカデミー賞受賞作としても知られる。

 「ビルマの竪琴」は竹山道雄が児童向けに執筆した唯一の作品を、市川崑監督が1956年と85年の2回映画化している。日本への引き揚げを拒否し、戦没者の慰霊のため現地に残って竪琴の演奏を続ける日本兵・水島を、本稿筆者も観た85年版では中井貴一が演じている。

 この2作はいずれも戦争の悲劇を捕虜虐待の被害国(戦場にかける橋)、敗戦国(ビルマの竪琴)の側から描いたもので、いずれも視聴者の胸を打つ。だが、日本人のビルマに対する知識と言えばこの程度のもので、戦後のビルマは長らく謎のベールに包まれた国だったというのが実際のところではないだろうか。

 太平洋戦争中、日本軍の後押しでビルマの英国からの独立運動を指揮した人物の中に、スーチー氏の父であり、後に建国の父と称せられることになるアウンサン将軍がいた。アウンサン将軍は日本敗戦後の1947年、英国からの独立を前にして暗殺される。

 ●軍のクーデターからビルマ式社会主義へ

 その後、独立を達成したビルマは政党政治がうまく機能しないばかりか、中国の国共内戦など周辺諸国の戦乱の影響で政治的混乱と経済低迷が続いた。そうした中、政治的発言力を増した軍部が1958年、ネ・ウィン将軍をトップとする暫定政府を成立させる。1962年には軍部がクーデターにより全権を掌握。軍政の基盤となる「革命評議会」を設置した。

 初めは発展途上国では珍しくない、軍事力による強権を背景とした凡庸な軍事独裁政権と思われた。だが「革命評議会」はその後、国際社会が予想もしなかった意外な方向へ進み始める。

 『ビルマ連邦革命評議会は、この世に人間が人間を搾取して不当な利益を貪るような有害な経済制度が存在している限り、すべての人間を社会的不幸から永久に解放させることはできないと信じる。わがビルマ連邦においては、人間による人間の搾取をなくし、公正な社会主義経済制度を確立し得たときに初めて、すべての人民が民族、宗教の別なく、衣食住の心配を初めとするあらゆる社会的苦しみから解放され、心身ともに健康で楽しい豊かな新世界に到達し得るものと信じる』。

 これは、革命評議会を設立したビルマ軍の17人の将校たちが起草し、1962年4月2日に発表した綱領的文書「ビルマにおける社会主義の道」からの抜粋である。革命評議会の目指す方向性が明瞭に示されている。

 彼ら軍人たちは、1962年7月にビルマ社会主義計画党を組織。ネ・ウィンを議長とした。1963年1月にビルマ社会主義計画党が発表した文書「人間と環境との相関関係」では、同党の目指す道がより具体的に示されている。

 『新しい公正な社会主義社会では、人間による人間の搾取や弾圧、富の収奪などは存在しない。搾取するものがいない以上、階級間の対立や衝突もない。階級間の矛盾、衝突を解決する唯一の経済制度、それが社会主義経済制度である。社会主義経済制度では、生産活動はみんなの共同で行われる。みんなが共同で行う事業は、みんなで所有するというのが最も理にかなっている。ビルマ式社会主義とは、この社会主義経済制度を実践することにある。……社会主義社会の建設を担うのは、実際に働く労働者である』。

 日本におけるビルマ研究の第一人者、大野徹・大阪外語大名誉教授は、これらの文書に記載されている内容から、ビルマ式社会主義と標榜されていたものが「資本主義を否定し、生産手段を共有し、これを計画的に運用することによって、人間による人間の搾取がない平等な社会の実現を目指していると言う点で、まぎれもなく社会主義の概念を反映した考え方である」としている。ただ、ソ連など他の社会主義国家ではきちんと整理されていた党と国家の関係などは、ビルマではきちんと整理されているとは言いがたい面もあった。例えば、1974年に制定されたビルマ新憲法では、ビルマ社会主義計画党を「国家唯一の指導政党」であるとして、他の社会主義国同様、党の指導性原則を謳いながら、実際の同党は革命評議会によって運営されていた。党と国家のどちらが実質的なビルマ社会の頂点になっているのか判然としがたい、独特の外観を持つシステムだったといえよう。

 1962年以降、革命評議会が実行に移した政策は社会主義そのものであった。石油合弁企業の国による接収、全輸出入企業と米の買い上げ、配給制度の国有化、国内全銀行の接収(62年)など様々な企業の接収と国有化が続いた。その後も国内の全商店の国有化(64年)、繊維工場、石油採掘企業の接収(65年)と続く。製造業の国有化が行われる1968年に至り、主要産業の国有化がほぼ完了したのである。

 同時にこの国有化は、外国資本とりわけインド資本を国内から追放する役割も担っていた。当時のビルマ企業にはインド人所有のものが多く、これらを接収することはインド人の手からビルマ人の手に経済の主権を取り戻すことでもあった。この時代、相次いで社会主義革命を達成した中国、キューバ、ベトナムなどで、社会主義化が実質的に外国人を追い出し、自国民の手に経済を取り戻すための過程であったことを踏まえると、ビルマ式社会主義もまた、こうした時代に規定された「民族主義的社会主義」としての性格を強く持つものであった。

 ビルマ式社会主義は、国営企業部門において企業管理者となるべき有能な人材の不足によって、所期の効果を上げることはできなかったが、それでもビルマ経済にとって最大の桎梏となっていた小作制の全面廃止など大きな歴史的事業を成し遂げた。1963年から65年にかけての農地改革で、小作人の選定権を地主から取り上げ、村落農地委員会に移すとともに、小作料を撤廃することが決められたのだ。地主の個人所有物でなくなり、村落農地委員会に移った農民は、名称こそ小作人のままであっても実質的には共同農場で働く農民労働者という位置づけになる。1988年時点の統計でも労働総人口の62%が農業に従事していた農業国・ビルマにおいて、地主と小作制の廃止は文字通り新時代への入口を意味したのである。

 その後、1974年にビルマは国民投票で90%以上という圧倒的な賛成を得て新憲法を採択する。このときの憲法では「ビルマは、労働者国民が主権を有する自由な社会主義社会である」(第1条)、「国家の最終目標は、社会主義社会にある」(第5条)、「国家の経済制度は、社会主義制度である」(第6条)、「国家の体制は、社会民主主義に基づく」(第7条)とされた。国名もビルマ連邦からビルマ連邦社会主義共和国に変更された。憲法が規定するとおりの社会実態が伴っていたかについては議論の余地があるものの、少なくとも外形的には、社会主義憲法と呼ぶにふさわしいものであった。

 ビルマ政府も、この憲法の承認で、1962年クーデター以来の軍政から民政への移管を達成したと内外に宣伝した。だが実際には、ビルマ社会主義計画党の一党独裁、そしてネ・ウィン党議長を指導者とする基本的部分は変わらないままであった。

 ●ビルマ式社会主義破たんから社会主義なき軍政へ

 ビルマ式社会主義の下で経済は低迷を続けた。温暖で湿潤な気候に恵まれたビルマは稲作に適しており、国民の食料は十分確保されていたが、米の生産量が戦前の水準を超えたのはようやく80年代に入る頃であった。それでも米輸出は戦前の水準には回復せず、ビルマは米輸出の低迷から必要な物資の輸入が滞るようになった。国民経済は徐々に悪化、失業者の増大、インフレの進行で国民の不満が高まった結果、反政府運動が起きるようになった。学生から始まったデモ・集会は各地に飛び火、人権や自由選挙を要求し始めた。学生たちの行動は、1962年のクーデター以来、ビルマ社会主義計画党議長として君臨してきたネ・ウィン将軍による指導体制への明らかな拒絶であった。

 経済がボロボロになり、学生から議長退陣要求を突きつけられたビルマ社会主義計画党は、一党独裁制の放棄と複数政党制の容認、ネ・ウィン議長の辞任などで事態収拾を図ろうとした。だが、社会的尊敬を集めてきた大乗仏教の高僧たちまでが学生側に立って行動し始めたとあってはすでに手遅れに近かった。こうして、追い込まれたビルマ政府が初めて複数政党の参加を得て実施したのが1990年総選挙だった。

 この選挙ではNLDが大勝。誰の目にもスーチー氏とNLDによる新政権が樹立されるものと思われた。だが軍部が政権委譲を拒否。さらに、ソウ・マウン将軍らによって新たな軍政組織「国家法秩序回復評議会」(その後「国家平和発展評議会」に改称)が置かれ、民主化運動は徹底的に武力弾圧された。この民主化運動の過程で、軍部の凶弾に倒れた市民の数ははっきりしないが、3000人に上るとの説もある。スーチー氏もその後、15年以上の長期にわたって自宅軟禁下に置かれるなど、ビルマ民主化への希望は散っていった。

 長い冬の時代を経て、ビルマに転機が訪れたのは2000年代に入ってからである。スーチー氏がノーベル平和賞を受賞するなど、軍事独裁政権への国際社会の目は次第に厳しさを増していった。2007年、軍出身のテインセインの首相就任以降、様々な改革が始まる。2010年、スーチー氏の自宅軟禁を解除。2011年11月にはNLDの政党登録が認められるなど、民政移管に向けた準備も整えられていった。

 ●NLD新政権と今後の課題〜そして日本は?

 小選挙区制で行われた総選挙で、NLDは改選全議席の3分の2以上を占める圧勝となった。テインセイン氏率いるUSDPは、この間、順調に経済再建を果たしてきたにもかかわらず、軍政の流れを汲んでいるという理由だけで実績はまったく評価されなかった。50年以上にわたって銃口で国民を支配してきた軍政への拒否反応が、ビルマ社会の隅々にまで浸透していたことを示している。

 スーチー氏を狙い撃ちするために旧政権が盛り込んだ憲法の規定により、外国人の家族を持つ者の大統領就任は禁じられた。英国籍の夫を持つスーチー氏は大統領に就任できず、別の人物を充てる必要がある。憲法を改正するためには国会で4分の3を超える賛成(4分の3「以上」ではない)が必要となる。憲法は軍部に4分の1の議席を非改選で与えることも規定しており、NLD新政権による改憲の道は事実上閉ざされている。

 国防相などの重要ポストも自動的に軍に割り当てられることになっている。軍との協調なしにはあらゆることが進まない難しい体制の中、新政権は新しい時代の舵取りを迫られる。戦前の日本では、陸軍大臣、海軍大臣は現役の制服組でなければならないとする「軍部大臣現役武官制」が導入された結果、軍部が気に入らない内閣から閣僚を引き揚げ、倒すなどして発言力を強めたことが、その後の軍事政権につながっていった。ビルマが導入している制度はこれと類似したシステムであり、文民統制の原則を否定するものだ。長期的には改憲により、こうした非民主主義的システムは改める必要がある。ただ当面は新政権安定のためにも、経済再建、少数民族対策、外交関係の再構築などが課題である。日本はNLD新政権にできるだけ助言と援助をしながら、民主化が後退しないよう見守ることが当面の対応の基本となるだろう。

 気になったのは、昨年11月の総選挙期間中、「半世紀にわたった軍事独裁政権の暗闇から、ビルマ国民がようやく脱した」的な、いかにもステレオタイプで「上から目線」の論評が日本のメディアで目についたことだ。確かにそれは事実に違いないが、本稿筆者はビルマに対し、そのような上から目線の論評をする資格が果たして本当に日本にあるのか問いたいと思う。1955年以降、60年もの長期にわたって自民1党支配をのさばらせ、いまだそこからの脱出の糸口もつかめない日本に対し、ビルマ市民は「わずか50年」でトンネルを脱したとの見方もできる。日本はいつ自民1党支配を脱するのか。政権交代可能な政治体制にいつ移行できるのか。ビルマや台湾に対して「上から目線」で論評を続けているうちに、このままでは日本が中国、北朝鮮と並んで「東アジア最後の1党支配国家群」の烙印を押されかねないところまで来ている。問われているのは、案外私たち日本のほうなのではないか――戦争法廃止のための野党共闘が叫ばれながら、遅々として進まない日本の現状を見るたびに、そんな思いにとらわれる。

<参考資料・文献>
 本稿執筆に当たっては、『ビルマ――破綻した「ビルマ式社会主義」』(大野徹)を参考にした。

(2016年1月25日 「地域と労働運動」第184号掲載)

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