ついにJR北海道崩壊が始まった〜「選択と集中」提言で噴出する赤字ローカル線問題
国鉄分割民営化とJR発足から28年が経過した。国交省・JRグループが弥縫策を積み重ね、民営6社体制の矛盾をなんとかを覆い隠そうとする中で、2013年、JR北海道で積年の矛盾が一気に噴出するように安全問題が顕在化。相次ぐ脱線・発煙事故、衝撃的な元社長2人の自殺、そしてJR会社法(旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律)に基づく史上初の「監督命令」と続いてきたJR北海道の崩壊がとうとう始まった。今度はローカル線廃止問題が急浮上したのだ。
きっかけは、去る6月26日、JR北海道内に設置された「JR北海道再生推進会議」(以下「再生会議」)が島田修JR北海道社長に対して行った提言だった。再生会議は、JR北海道に監督命令が出された後の昨年6月に8人の社外有識者(注1)を集めて設置されたもので、1年間にわたってJR北海道「再生」のための検討を続けてきた。その検討結果をまとめたものが、「JR北海道再生のための提言書」と題されたA4版で34ページの文書(以下「提言」)である(注2)。
●JRの怠慢棚に上げ「選択と集中」提言
予想されてはいたことだが、提言はJR北海道に対し、「事業範囲の選択と集中」を進めるよう求めた。路線名の明示こそ避けたものの「鉄道特性を発揮できない線区の廃止を含めた見直し」を進めるべきである、とした。「選択と集中」が、不採算部門を切り捨てる際に民間企業が用いる常套句であることに注意する必要がある。
この提言の発表とタイミングを合わせるように、JR北海道幹部が留萌本線沿線自治体と「非公式に接触」し、同線の部分廃止〔留萌〜増毛、16.7km〕をほのめかしていることが「北海道新聞」により報道された(6/27)。同紙の報道その他の情報を総合すれば、JR北海道が廃止を検討している路線は留萌本線のほか、日高本線〔146.5km〕、札沼線〔北海道医療大学〜新十津川、47.6km〕、石勝線〔新夕張〜夕張、16.1km〕、根室本線〔滝川〜富良野、54.6km〕。廃止が検討されている5路線・区間の営業キロの合計は281.5kmで、JR北海道全体〔2,499.8km〕の11%にも及ぶ。
『国鉄最後の時期にJR北海道は経営が厳しいだろうということで新しい設備を大量に入れた。そのため、会社発足当初はメンテナンスの必要があまりなく、これまで対前年主義の予算措置で設備投資や修繕を行ってきたことに問題があった』(注3)。再生会議の中で、JR北海道は設備の修繕について、みずから委員に向けこのように説明している。
線路や駅などの設備には、古くなればなるほど維持費がかかり、また列車本数の繁閑によって路線・区間ごとに老朽化の度合いには当然、差がつく。それにもかかわらず、JR北海道は、路線・区間ごとに設備の老朽化の実情を点検し、メリハリのきいた維持費の配分を行うなどのきめ細かな対応をせず、対前年主義によって修繕費の配分を決めるなど、官僚主義的な対処を続けたことをみずから告白しているのだ。
そもそもJRでは、公社制度が採られていた旧国鉄時代から企業会計制度が導入されていた。設備、車両などほぼすべての資産に減価償却の考え方が取り入れられていたから、資産は老朽化すればするほど帳簿上の価値が低下し、民間企業でいう利益が増える仕組みだった。JRになってからもこの仕組みは維持されており、設備の老朽化によって増える利益を計画的に維持費、修繕費に充てる体制を構築していなければならなかった。しかし、JR北海道は、激化する航空機や高速バスとの競争の中で、ほとんどの費用を高速化に充ててしまい、安全投資や路線維持に注意を払わなかった(『高速道路網の道内整備計画に対抗するため、限られた財源を都市間高速事業に重点配分したこと等により、結果的に今日の老朽設備の更新不足を招くこととなった』との会社側の発言(注4)もある)。
こうしたJR北海道の発言は、他の議題と同列に並べる形で、議事概要の隅にこっそりと記載されるようなものではなく、まさにJR北海道自身がやるべきことをきちんとやってこなかったという重大な「告白」である。
2013年に安全が崩壊して以降、JR北海道が安全・修繕投資に要する経費として2600億円が見込まれる中で、再生会議は「限られた経営資源をまず安全に集中させ、配分できない事業分野については見直しを行う選択と集中」が必要と主張する。しかし、JR北海道みずから説明しているように、現在の安全崩壊の原因が会社側の怠慢にあることは明らかだ。それにもかかわらず、今になって「金がないから安全か路線維持かの二者択一だ」と沿線地域・住民に迫るJR北海道のやり方は、安全神話にどっぷり浸かったあげく、福島原発事故が起きるとみずからの怠慢を棚に上げ「料金値上げか原発再稼働か」と迫る電力会社と同じであり、断じて容認できない。
●地域社会に不利益押しつけ
7月に入ると、JR北海道は「経費節減」を理由として、芦別、赤平(いずれも根室本線)、鷲別(室蘭市・室蘭本線)の3駅の無人化(10月予定)を突然提起してきた(ちなみに芦別・赤平の両駅は、北海道新聞が「廃止を検討」と報じた根室本線・滝川〜富良野間にある)。これとは別に、JR北海道が金華(かねはな、石北本線)、小幌(室蘭本線)の両駅について廃止の意向を持っていることも報道された。地元自治体との合意はおろか事前協議もなく、赤字を理由に一方的に路線や駅の廃止、無人化が打ち出される状況は国鉄末期より悪い。国鉄末期には、廃止対象路線ごとに地元との協議の場として「特定地方交通線対策協議会」が設置されていたからである。
路線ももちろんだが、駅とはそんなに軽々しく廃止や無人化が決められてよいものなのだろうか。そもそも、駅とは単に旅客が乗降するためだけの場所ではない。地域の拠点であり、顔であると同時に、鉄道側にとっては安全・安定輸送のための基地の役割も果たすものである。北陸新幹線(長野新幹線)東京〜長野間が1997年に開業したとき、安中榛名駅は「全列車通過ではないか」「乗客はタヌキだけ」などと言われたが、それでもJRがここに駅を作った理由は、事故やトラブルが発生した際に、駅間距離があまりに離れていると回復作業に支障を来しかねないからである(実際、新幹線でも隣接する駅同士が100km以上離れている区間は日本には1カ所も存在せず、すべて「隣の駅は100km以内」にある。旧国鉄の規程には明文化されていなかったようだが、事故や災害の際に「復旧や救助活動のための拠点を置きやすいよう、駅間は100km以上離れないようにしている」との話を聞いた記憶がある)。駅とは緊急事態に係員が参集したり、資材を集めたりすることのできる拠点なのだ。
1990年代前半だったと記憶するが、JR北海道が「利用者減」を理由に4つの駅を廃止したときの出来事だ。4駅のうち最も乗降客の少ない駅は1日の利用者数が乗車0.5人、降車0.3人との記録があった。2日間で1人乗り、3日間に1人降りる計算になる。さすがに駅としての機能を果たしていないと判断したJR北海道は、地元に「廃止の打診」をしようとしたが、打診すべき「地元」が存在しない、という信じられない過疎の駅だった。JR北海道は問題ないとして4駅を廃止した。
ところが、その後問題が起きた。駅が廃止されたため、地元のお年寄りが列車で通院できなくなったのだ。このお年寄りは「週に1、2回列車に乗っていた」らしく、「乗車0.5人、降車0.3人」はこのお年寄りだった可能性もある。地元自治体はJR北海道に駅廃止の撤回を求めたがJRは応じず、結局、役場がこのお年寄りを病院まで送迎することで決着している。
1日当たり利用客数が小数点以下の駅ですら、廃止すればこのような問題が起きる。ましてや路線廃止となれば、その影響は北海道内にとどまらず、日本経済全体への打撃となろう。北海道で生産された農産物の大部分は、JRの貨物列車を通じて「内地」(北海道から本州を指す用語)へ輸送されているからだ。各路線・区間の旅客輸送人員の問題とは分けて議論する必要がある。実際、再生会議でも『(北海道のJRの鉄道路線は)北海道で作った農産物等を全国に輸送する役割を持っているわけで、ある意味では国家的な経済の中にこの問題(貨物輸送問題)はある』との発言が委員から出ている(注5)。
●「日高線問題を考える会」開催
このような中、6月27日、北海道新ひだか町内で「JR日高線問題を考える会」主催の集会が、安全問題研究会も参加して開催された。日高本線は、高波による土砂流出の影響で今年1月から不通に陥っており、復旧のめどは立っていない。JR北海道は、応急工事でもいいからとにかく復旧を急いでほしいとの沿線の要望には応えず「抜本的な高波対策として26億円の工事費が必要」として不通を続ける方針を崩していない。一方、沿線自治体・住民には「鉄道のない生活に沿線を慣れさせ、廃止に持って行くための“社会実験”ではないか」として、こうしたJR北海道の姿勢に対する不信が生まれつつある。
集会では、当コラム筆者が講師を務め、(1)JR6分割体制の問題、(2)1987年、国鉄改革関連8法案の可決成立の際に参院で行われた「安全安定輸送の確保」を求めた国会決議が無視されたこと――等を指摘した上で、線路の維持管理部門をJRから分離し、国などの公共セクターに移す「上下分離」や再国有化を含めた抜本的改革の方向性を提起した。参加者は20名程度と小規模なものだったが、後半のグループ討議では、ローカル線活性化のため地元として取り組むべき課題や、路線維持・復旧のあり方について活発な討議が交わされた。
今年5月14日の定例記者会見で、島田社長は「(日高線復旧の前提となる海岸保全工事費について)鉄道会社が本来負担すべきものか」との疑問を表明している。当研究会が見るところ、現状の大きな問題点は、鉄道が公共交通機関として国の政策の中にしっかりと位置づけられていないことにある。道路や空港が国や自治体の予算で建設され維持されているのに対し、鉄道は、建設はともかく維持や修繕のほとんどが鉄道会社に任せられていることはその象徴だ。同じ公共交通として、鉄道は道路・空港と同じスタートラインに立つことさえ許されておらず、あまりに不公平ではないか。
当研究会は、2013年11月、参院議員を通じて提出した「JR北海道で発生した連続事故及び日本国有鉄道改革の見直しに関する質問主意書」で、次のように政府の見解を質している。
道路の維持管理は政府や地方公共団体などの公共セクターが実施しており、空港もほとんどが公共セクターによる維持管理が行われている。しかしながら、鉄道に関しては線路の維持管理は原則として鉄道事業者に委ねられている。同じ公共交通である以上、道路や空港と同様、鉄道線路の維持も国や地方公共団体により行われることが必要と考えるが、政府の見解を明らかにされたい。 |
これに対し、政府が閣議決定した答弁書の内容は以下の通りだった。
我が国の鉄道事業については、一般的に、鉄道事業者がその運営及び鉄道施設の維持管理等を一体として行っており、国土交通省としては、輸送の安全の確保等のため、鉄道事業者に対し、補助金等により支援を行っているところである。 |
この答弁書に示されているように、政府は「これまでもそうだったから」という以外にまともな回答を示せておらず、鉄道を公共交通として維持発展させていくという信念を持っているとはとても思えない。線路はおろか、護岸工事までなぜJRの負担で実施しなければならないのかという疑問を、島田社長でなくとも抱いて当然だろう。
それと同時に、私たちが今後に向け乗り越えなければならない課題は、公共交通を重要な公共財的存在と位置づけ、沿線住民の合意があるものについては採算にかかわらず維持するというコンセンサスを作り上げることである。経済学上、鉄道は、共同消費性(注6)、排除性(注7)を持っており、道路や図書館などと同様「準公共財」に位置づけられる。そうした鉄道事業の特性をしっかりと社会に訴え、発信していくことが重要である。
7月14日、日高本線の土砂流出箇所を視察した高橋はるみ北海道知事は、「早期復旧に向け国とJR北海道に働きかける」意向を表明した。今年春の統一地方選で、道政史上初の4選を果たした高橋知事に対しては「他の関係者に要望する、あるいは他の関係者の動向を見て判断すると繰り返すだけで、知事としての自身の考えが見えない」との批判も就任以来つきまとっており、道議会野党のみならず与党(自民・公明)の一部にも同様の声がある。当コラムとしても、道としてどのように対応するかが見えない高橋知事の姿勢にはもどかしさを禁じ得ないが、一方で道が主体的に復旧に動くと表明すれば、応分の費用負担を求められる可能性もあり、難しい舵取りを迫られていることも事実だろう。
今後は、沿線住民と自治体の動向が鍵を握るとみられることから、日高本線沿線を中心に、廃止が検討されている他の路線・区間の沿線にも働きかけ、廃止に反対する住民運動体を立ち上げることが重要と考えられる。当研究会としても、このような動きに積極的に関わっていきたいと考えている。
※「JR日高線問題を考える会」主催の集会で、当研究会が報告に使用した資料(レジュメ)。
注1)宮原耕治日本郵船会長を議長とし、高橋はるみ北海道知事や弁護士など7人の委員で構成。国土交通省から本田勝国土交通審議官、瀧口敬二鉄道局長がオブザーバーとして参加している。
注2)JR北海道サイト。提言の「別紙」もJR北海道サイト。
注3)再生会議第1回会議(2014.6.12)議事概要。
注4、注5)いずれも再生会議第2回会議(2014.7.3)議事概要。
注6)1970年にノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者、ポール・サミュエルソンが提唱したもの。ある人がその財やサービスを消費しても、別の人の消費可能分が減少しない性質を持つとき、これを「共同消費性を持つ」という。例えば、ある食料品を消費者Aが半分食べてしまった場合、別の消費者Bが食べることのできる量は半分に減少するから、食料品は共同消費性を持たないが、道路はこれと異なり、消費者Aがその半分を歩行したからといって、別の消費者Bが歩行できる分が半減するわけではないから、共同消費性を持っている。
注7)共同消費性と同様、サミュエルソンによるもの。使用料を設けることによって、その支払を行わない者を使用から排除できる性質を持つとき、その財やサービスが「排除性を持つ」という。例えば美術館などの公共施設はこれにあたる。一方、警察・消防・防衛などの公共サービスは、使用料を設定し、これを支払わない者を排除することが不可能であることから、排除性を持たないとされる。なお、共同使用性・排除性を根拠に財を公共財、準公共財、価値財、その他に分類するサミュエルソンの考え方に対しては、反新自由主義派の宇沢弘文などによる有力な批判がある。
(2015年7月25日 「地域と労働運動」第178号掲載)