あの騒ぎはいったいなんだったのだろうか。今年1月、華々しく発表された「STAP細胞」のことだ。この細胞を酸性の液体に浸して外的刺激を与えれば「初期化」が起き、あらゆる細胞に転化しうる万能細胞となる。理化学研究所(理研)発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方晴子・研究ユニットリーダーらによる一連の研究と発見は、一時は「生物細胞学の世界的常識を塗り替えるもの」「ノーベル賞級の発見」とまで言われた。「リケジョ」(理系女子)「おばあちゃんから譲り受けた割烹着」「ピンクの研究室とムーミン」などがクローズアップされ、小保方氏は一躍、時の人となった。
しかし、翌2月になると一転、雲行きが怪しくなった。インターネット上で次々と論文の誤り、無断引用、「コピペ」(コピー&ペーストの略。いわゆる切り貼り)などが指摘され、研究の正当性は大きく揺らいだ。3月になると、根拠となった論文の取り下げが議論されるようになり、研究の正当性は完全に失墜。根拠のない研究成果を発表する形となった理研の敗戦処理に焦点が移っていった。
通常であれば、ここで研究者ともども理研が謝罪会見を行い、論文取り下げを公表して事態の収拾を図るところだが、その後の展開は異例ずくめだった。小保方氏が論文取り下げを求める理研の勧告を拒否し、みずから弁護士をつけて反論会見を行ったのだ。小保方氏は、「STAP細胞の再現に200回以上成功した」「STAP細胞はあります」と宣言、徹底抗戦の構えを見せた。
5か月経った現在では「後知恵」と言われるかもしれないが、いま思い返してみれば、1月、理研が「STAP細胞の再現に成功」を発表した時点で不可解な点はいくつもあった。なぜ割烹着やピンクの研究室にばかり焦点が当たり、肝心の研究成果について誰も言及、論評しないのか。弱冠30歳の若い研究者に本当にこのようなことが可能なのか。「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」とまで酷評され、いったんは論文掲載を拒否された英科学誌「ネイチャー」が一転して小保方氏の論文を受け入れるまでにどのような経緯があったのか。肝心なことには全くスポットライトが当たらず、若き「リケジョ」に関するワイドショー的な報道ばかりが先行した。
そもそも、この時点で筆者は「外部刺激による細胞の初期化が事実としても、それは端緒であり入口であるにもかかわらず、騒ぎすぎではないか」との感想を抱いていた。酸性の液体による刺激で細胞の初期化が起き、万能細胞になるとしても、その初期化が予期せぬ状況下で起きた場合は、何かのSF映画のようにヒトがある日突然「細胞の自然崩壊」で死亡することになりかねないし、また逆にその現象を起こしたいときに起こせないようでは再生医療の現場では全く使い物にならないからだ。細胞の外部刺激による初期化は、それを「発生してはならない時には決して発生させず、発生させるべき時にはきちんと発生させる」という形で人為的なコントロール下に置くことができたとき、初めて再生医療の現場での実用化に道が開かれるという性質のものだった。理研の華々しい発表の時点で、小保方氏の研究は「何百回実験を繰り返せば、確率的に何回かの割合で細胞の初期化現象が発生する」という程度のものであり、まだ実用化可能な域には全く達していなかった。もちろん、こうしたことは基礎研究の分野では珍しいことではないし、研究成果が確実なものであれば、人類の未来と科学の発展のためにそれを公表し、その後のことは応用分野の研究者に委ねるのもひとつの選択肢だろう。しかしそうだとしても、研究成果そのものより研究者個人の人物像ばかりがクローズアップされるような方向へと報道陣を巧みに誘導したことに対しては、理研にも大きな責任があるというべきだ。
●再現実験なき「空中戦」
とりわけ奇妙だったのは理研と小保方氏による「STAP細胞」発表後の科学界の動きである。2月に入り、研究の正当性に疑問符がつき始めると、それまで様子見だった科学界は一斉に「小保方バッシング」に転じた。上昌広・東大特任教授など「学界の権威」がメディアに出演しては、根拠なく「STAP否定論」を振りまき始めたのだ。
この時点では、両者の論争は小保方氏に分があった。再現実験もせず、頭ごなしに「STAPはない」と決めつけた否定派学者に対し、少なくとも小保方氏は「再現実験を行った結果だ」と主張していたからである。科学界の内外から、小保方氏以外の研究者も加わる形での再現実験を求める声が強まったが、なぜか科学界の多数派は「必要なし」として再現実験に否定的だった。
3月に入り、論文の誤り、無断引用、切り貼りの指摘はさらに増え、小保方氏はいよいよ追い詰められたかに見えたが、4月の「反論会見」は世間の空気を大きく変えた。小保方氏は自説を曲げないどころか「STAP細胞の再現に200回以上成功した」と言い放った。本来なら、「何回再現実験をしての200回なのか」(何回分の200なのか)と質問する記者がいなければならなかったが、メディアの科学リテラシーも相当低いらしく、こうした実のある質問のできる記者は見あたらなかった。
小泉政権あたりから日本社会を覆っている「たとえ間違ったことを主張していても、ぶれないほうがカッコいい」というムードに、小保方氏の反論会見がうまく乗ったように筆者には見えた。自費で会場を借り、弁護士以外には誰の助けも借りず、理研からは孤立無援のままひとりで3時間近くにわたる記者の集中砲火を乗り切った小保方氏に対し、研究所のカネで会場を借り、複数で会見する理研の男性幹部――そのあまりに対照的な姿は、日本を長い混迷に陥れてきた「責任・謝罪なき男性社会」の病巣そのもののように筆者には思えた。もともと判官びいき的な日本社会の体質もあいまって、この時期、小保方シンパは一時的に急増したようだった。
小保方氏も参加して、理研による再現実験が始まったのはようやく最近になってからである。「小保方劇場」はあともう少し続きそうだ。
●「現実がおかしい」と言い放った原陪審委員
不完全な再現実験のまま「STAP細胞はある」「200回見た」と豪語する小保方氏、そして同じく再現実験もしないままSTAP否定論を振りまき続けた学会多数派の学者たち――科学者の本分である「真理の探究」などそっちのけで自分の信じたいものだけを信じ、根拠もなく信じたものだけを「科学」としている点では同じ穴のムジナだ。
こうした不毛な空中戦を見ていて、筆者がこのところ抱いていた疑問は確信に変わった。彼らは科学で争っているように表面を取り繕いながら、実際には政府の審議会やちっぽけな大学のポストを巡って政治的に闘っている。真理を探究した者が勝つのでもなければ、正しい者が勝つわけでもない。本質はむしろ逆であり「勝った者が正しい」とされているだけだ。昔からよく言われる「勝てば官軍、負ければ賊軍」で科学界もただ、動いているに過ぎない。
同時にこの騒動を見て、筆者は「ある光景」を思い出していた。あの「美味しんぼ」騒動だ。多くの福島の住民が鼻血を訴えているのに根拠なく否定する傲慢な原子力御用学者たちの姿がSTAP否定派に重なって仕方ないのだ。
そもそもこの間、メディアに繰り返し出演し、先頭に立ってSTAP否定発言を繰り返してきた上昌広・東大特任教授もまた福島における「放射能被曝安全神話」作りに一役買っている。彼は、東大医科研究所で後輩に当たる坪倉正治氏を南相馬市立病院に送り込んだ。坪倉氏が現地でやったことといえば、ホールボディーカウンター(WBC)でひたすら地元住民の内部被曝を測定、「安全・安心」と触れ回ることだった。WBCは、人体内部から外部に向かって放射されるガンマ線を測定し、そこから人体内部にある放射性物質を推定する道具に過ぎない。環境中のガンマ線線量に影響されて正確な測定は不可能であるのみならず、ガンマ線を発する核種以外(ストロンチウム、プルトニウムなど)は測定できない、いま現在体内にあるガンマ線核種の量を推定できるだけで、すでに体外に排出されてしまった核種やその量の推定はできないなど多くの欠陥がある。せいぜい「野生食物の食べ過ぎで、いま体内に放射性物質が多いので、しばらく食事に気をつけてください」ということがわかる程度の代物だ。それを福島で錦の御旗のように振りかざし、安全・安心を宣伝して回ったのが上昌広特任教授、坪倉正治医師ら東大医科研グループである。
真理の探究はおろか、いま目の前で起きている事実すら否定する頑迷な原子力御用学者のエピソードはいくらでも挙げることができる。例えば、福島第1原発事故後の賠償について審議し、指針を策定する文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会(原陪審)で2011年12月、福島県民の精神的苦痛に対する賠償が審議されていたときのこと。原陪審委員、草間朋子氏(大分県立看護科学大学長=当時)は、傍聴に来ていた福島の住民が健康被害を訴えると、その住民に向かって、文科省の廊下でこう言い放ったのだ。「私の研究データではそんなことがあるはずがない。現実がおかしい」。
●本稿は科学への最後通告である〜カルト科学界、滅亡せよ
いやはや、本当に恐れ入る。自分の研究データと目の前の現実が食い違うと「現実がおかしい」とは…。「尊師」の予言通りに世界の終末が訪れそうにないからと、自分たちでサリンをまいて人為的に世界の終末を作り出そうとしたどこぞのカルト宗教と、これではまるっきり同じではないか。
STAP細胞問題が起きたことで、筆者にとって良かったと思えることがひとつだけある。3.11「原発震災」に続き、日本の科学界を取り巻く暗部がまたも明らかにされたことだ。めまいがするほどあまたの堕落、腐敗、利権、打算と野望にまみれた師弟関係、そして何より真理も事実も否定して、自分の信じたいものだけを信じ「科学」と強弁する「ムラ」住人たち――筆者はあえて言おう。もう日本の科学に未来はないと。すでに確定した過去の業績によってノーベル賞を受賞する人はこれからももう少しいるかもしれない。しかし今後、科学分野で新たに業績を確定させノーベル賞を受ける科学者は、日本からはもう二度と生まれないような気がする。
科学ムラ住人たちよ。本コラムを読んでいるなら、今年いっぱい時間を与えるから自己批判せよ。傲慢な態度で市民を上から見下してきた過去を謝罪せよ。
もし、当コラムからのこの公開質問に対し、真摯な回答が得られなければ、筆者は来たる2015年正月、日本の科学界「打倒」を宣言する。
(2014年6月25日 「地域と労働運動」第165号掲載)