正月の「福島民友」記事から福島県内メディア問題を考える

 福島県に2紙ある地元紙のうちの1紙「福島民友」が、2014年1月3日付の紙面の1面トップに「「自主避難して正解」原発災害「復興」の影 肯定求める親の判断 古里を離れて心に負担」という記事を掲載し、新年早々話題になっている。



 この記事は、兵庫県西宮市に避難する母子避難者の「周りからは『大変ね』って、数え切れないぐらい言われる。母子避難という“ブランド”を背負っているような感じ」というコメントを紹介しつつ、避難先で子どもが砂遊びをしていても安心していられる喜びを伝えている。相馬市から滋賀県栗東市に避難する元設備業の男性は、2011年11月、避難先の京都で相馬の知人ら再会した際、「今度、何かあったら子どもを避難させたい。預かってくれないか」と言われたという。

 その上で、福島大行政政策学類准教授の丹波史紀(40)(社会福祉論)の「自主避難者は職場や古里を捨てたのではという後ろめたさを感じている人が多く、避難が正しかったと思いたい気持ちが強い。地元で健康被害などがあれば、避難が正当化されるという考えもみられる」「自主避難者に『避難は悪いことではない』『間違ってない』と言ってあげるなどの支えが必要だ」とのコメントを紹介している。

 正月(特に元日)の紙面は、新聞にとって特別の意味を持つ。「1年の計は元旦にあり」は新聞も例外ではなく、各紙が今年1年間、重点的に取り組みたいこと、報道したいことを内外に向け宣言するのが元日をはじめ正月の紙面だとされる。例えば東京新聞は、元日の紙面で「東電、海外に210億円蓄財 公的支援1兆円 裏で税逃れ」「浜岡増設同意 地元に53億円 中部電ひそかに寄付」のスクープ記事を掲載したが、これは同紙として、今年も福島原発事故問題に果敢に取り組むという「決意表明」だ。同様に、北海道新聞は元日の紙面に「JR北海道子会社、保線費用から裏金か 発注水増し、返納指示」の記事を掲載したが、こちらも今年、同紙がJR北海道の安全問題を最重点課題にするという決意と見て間違いない。東京、北海道両紙には今年も期待できそうだ。

 とはいえ、1月3日の紙面、しかも1面トップにこの記事を持ってきた福島民友の真意を筆者は計りかねている。この記事に関しては、「よくぞここまで来た」と福島民友の「英断」を讃える声がある一方、丹波史紀・福島大准教授の「地元で健康被害などがあれば、避難が正当化されるという考えもみられる」というコメントを捉え、自主避難者を貶める悪意に満ちた記事だと批判する動きもあり、評価は真っ二つに割れているからだ。

 事故発生後も2年間福島に住み、その後の未曾有の事態を見てきた筆者の目には、この記事は「英断」と映る。なにしろ、事故以降の福島県内での「放射能タブー」ぶりはすさまじく、ファシズムとしか形容できないものだった。県・自治体行政、議会、メディア、住民一体となった「復興・除染・帰還」「風評撲滅」キャンペーンが繰り広げられ、この風潮に少しでも異を唱えるものには容赦なく「裏切り者」の烙印が押された。旧警戒区域・計画的避難区域から強制避難となった住民でさえ、福島を愛しているなら帰りたいと言わなければならないムードが、つい最近まで支配的だった。そうした排他的で異論を許さない福島の空気のほうが「放射能より怖い」という悲痛なメールが筆者の元に回ってきたことさえある。

 戦前、昭和恐慌に陥り、政治的・経済的・社会的に余裕を失った日本や、第1次世界大戦の巨額の賠償金に苦しみ、自信と余裕を失ったドイツが偏狭な「愛国心」やナチズムを持ち出し破滅の歴史に入っていったように、人も社会も、余裕を失い苦しくなると「国家」「郷土」など強大で偏狭かつ観念的な「共同体幻想」にすがろうとする。福島県で排他的な愛郷心キャンペーンが「帰還」「自主避難阻止」の形で猛威をふるっていることは、すなわち福島県が陥っている危機の最も象徴的な現れと捉える必要がある。

 この間、特に福島県内メディアは積極的にこの風潮を作り上げ加担してきた。特に悪辣で許し難いのは県内で最大部数を誇る「福島民報」だ。古い話になるが、2011年12月6日、原発周辺地域(50km圏内)の住民に1人あたり妊婦・子ども(18歳未満)は40万円、その他は8万円の賠償を行うべきだとする原子力損害賠償紛争審査会(原陪審)の中間指針が示された。この翌日の「福島民報」紙面で大誤報が起きた。


<写真>2011.12.7付け「福島民報」紙面から

 この画像の記事をご覧いただきたい。「自主避難の賠償例」として母親が子どもを連れて東京に自主避難した場合の賠償について、母親への賠償は「なし(子どもに支払い)」と記載されている(表の上から2段目)。どう見ても、母親+子ども1人で40万円の支給、としか読めない内容になっている。

 しかし、これは結果として「誤報」だった。実際には、このケースの場合、母親に8万円、子どもに40万円が支給され、母親+子ども1人なら賠償は48万円となる。事故当時、原発から半径50km圏内に住んでいた人であれば、その後福島に残っても避難しても一律にこの金額が支給されるはずなのに、おかしいと不審に思った読者が文部科学省に問い合わせをした結果「誤報」が発覚。後日、「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」(サフラン)も文科省に確認し、同様の回答を得たのである。「福島にとどまり仕事を継続」の父親には8万円が支給される一方、「東京に自主避難」した母親には「支給なし」と報道する。「福島から逃げたら賠償を受けられなくても知らないぞ」と、事実をねじ曲げてまで県民を恫喝する、極めて悪質な「誤報」だった。

 この誤報には続きがある。記事が出てから約1週間後の2011年12月15日、東京在住のフリージャーナリスト・上田眞実さんが福島民報に誤報発生の原因などについて問い合わせたところ、福島民報側の回答が極めて不誠実だったのだ。このいきさつを示した上田さん執筆の記事は、今なおレイバーネット日本サイトに残る。少し長くなるが引用する。


 (福島民報社に)に問い合わせしたところ、編集局の佐久間順さんという方が対応した。仔細を聞くと『共同通信配信の記事を載せたところ、その中の賠償金額が間違っていたので、誤報になった』との事。『たとえ共同通信と言えど、内容をチェックしないのですか? 裏付け取りはしないのですか?』と聞いたところ、佐久間『普段はしない物なんです』とのこと、共同通信社配信の記事をノーチェックで掲載した所の誤報事件だった。

 『自主避難を考えている親御さんにとって母子にとっての、心理的、社会的影響を考えなかったのか』との問いには答えなかった。経緯については 佐久間『朝の早刷り、6版で指摘があり気がつき、8版の遅刷りで訂正し、翌日訂正記事を出した』という経緯の説明を受けた。『6日の経産省で行なわれた原子力賠償紛争審査会には東京に取材に行ったのか』佐久間『行ってません』

 そこで共同通信社に改めて誤報が流れた経緯を聞いた。同社のニュースセンター整理部・新堀浩朗部長が『大変申し訳ない事で、申し開きが出来ない事』と全面的に共同の記事が間違いであったと話し、『取材をした記者の聞き取り間違いです』と取材ミスからの誤報であった事を認めた。

 『当事者にとっては非常に重要な問題、これは情報の隠蔽なのか、何かの意図があるのか』新堀『全くありません、最初、母子の賠償は賠償金額にまた新たな金額を上乗せするか、との審査会でのやり取りで『上乗せはしません』という返答をしていたのを聞いていた記者が『母子自主避難賠償金額は0円』と聞き間違え、そのまま記事になってしまったのです、ニュースリリースも無く、その場のやり取りを聞いていくという取材でした』『取材ミス、という事ですか』新堀『その通りです、6日に審査会があり、7日に記事が各報道機関に配信され、翌日8日に訂正されました、配信した報道機関には、間違いであった事は通達しました』『他の新聞社も、掲載されましたか』新堀『詳しくは解りませんが、掲載された』

 二人の記者に話を聞いて、感じたのは『事件への問題意識が希薄』という事だった。沢山配信される記事、膨大な情報、日々の更新・・・の、その中の誤報のひとつでしかないのだろう、しかし、ガラスバッチを持たされ、それを計測されて報告される毎日よりも、放射能のない地域で暮らしたい、と思ってる親子には実にショックな内容の記事だ。怒っている人達が沢山いるのも当然と思う。

 特に福島民報は地元の読者が当事者である原陪審に取材にいかず、中央の報道機関の記事をノーチェックで掲載する、という脇の甘さ。報道関係者としての矜持を疑う物である。二度目に『福島民報』を取材した時は終始『訂正したんで』と面倒そうに答えていた。(その時の対応者は風間記者)

 読者はお灸の据え方をよーく、考えた方が良いと思う。

上田眞実 2011.12.15


 このとき、筆者は、「福島民報」が事実を報道するよりも県民の自主避難を阻止することに重点を置くメディアだということ、県民の自主避難を阻止するためなら誤報さえ平気で流し、訂正もおざなりにしか行わないメディアであるということを知った。

 福島民報に関しては、もうひとつ、重要な事実を指摘しておく。メディアに限らず、株式会社では通常、経営陣が自社の株式を保有しているのが通例だが、地元誌「政経東北」によれば、福島民報社は経営陣で誰も自社の株式を持っていない。代わりに福島民報社の株式の10%を持つのが福島テレビであり、その福島テレビの大株主はなんと県だ(県が50%保有)。このため福島テレビは「県営テレビ」と揶揄されており、福島民報も県から見て孫会社ということになる。

 権力批判が仕事であるメディア企業にとって、公権力に経営を押さえられることは屈辱以外の何ものでもないはずだが、それを屈辱はおろか、不正常な状態と認識するだけの知性も胆力もないのだからお話にもならない。こうした「土着御用メディア」こそが、県民の自主避難を妨げる要因になってきたのである。

 今回、冒頭の記事を掲載した「福島民友」は、福島県内では一応、読売系列ということになっている。福島県内で福島民友を置いているコンビニには読売が置いていないこともある。中央レベルでは読売は原発推進の論調を続けており、それどころか読売新聞元オーナーの正力松太郎こそ日本への原発導入の旗を振った人物であるという事実も、3.11以降は広く知られるようになった。

 ただ、未曾有の原発事故を経験した福島県内の状況は中央とは異なっており、読売系列だからといって福島民友が再稼働を含めた原発推進路線を支持しているというわけではない。2011年秋、二本松市のゴルフ場が東京電力に除染費用を求めて提訴した訴訟で、東電が「ゴルフ場に降り積もった放射性物質は“無主物”(所有者のいない物体)」であるとの珍妙な主張を展開したが、この出来事があった直後の東京電力の記者会見では、福島民友の記者が「福島県内を汚染している放射性物質はどこから来たもので、所有者は誰か」と東電を追及。東電社長が「私たちが原因です」と陳謝する場面もあった。福島原発告訴団による告訴・告発の記事も、県内では概して福島民友のほうが福島民報より扱いが良いことが多かった。筆者は、福島民報を厳しく批判する一方、福島民友に対しては、この記者のような良心的で正義感の強い人物もいること、また徐々にではあるが、私たちの望んでいる方向に論調が変化する兆しも見えたことから、これまで表立った批判を手控えてきた。

 福島民友が今回、初めて、自主避難者を多少なりとも肯定的に評価できるようになった背景に、3.11以降のこのような苦闘の積み重ねがあることは指摘しておいて損はないと思う。最後の段落で取り上げられた福島大准教授のコメントだけを捉えて「悪意に満ちた記事」と論難する動きもあるが、自主避難者に対し、福島県内に残った人々から「今度、何かあったら子どもを避難させたい。預かってくれないか」という声がかけられた、という事実を表に出しただけでもいいではないか。放射能タブーが日常化してしまった福島で、ここまで来るだけでも、さぞ大変であったことは想像に難くない。

 この記事は、福島県内に静かに、しかし確実に大きなハレーションを呼ぶだろう。今後の展開に注目したいと思っている。

(2014年2月25日 「地域と労働運動」第161号掲載)

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