市民を幻惑させ、抑圧して「科学」はどこに行くのか?
科学界は今、敗北を真摯に認め、謝罪せよ!
早いもので、2011年ももう1年を振り返る時期に入った。せめて年末年始にじっくり読まれることが多い新年号くらいは、それにふさわしい明るい話題を 書きたかったというのが本心だが、残念ながら3.11の大震災と福島原発事故によって、日本国内では本当にいいことがなかった。
だが世界に目を転ずると、今年はウォール街占拠やヨーロッパの通貨危機も起きた。イラクからは米軍が全面撤退に追い込まれ、イラク戦争以来の米軍支配が ついに終わりを告げようとしている。世界中の自覚的な市民が「政治とは、社会とは、国家とは」を真剣に考えた。彼らの多くが非暴力で既存の支配体制に対し て自然発生的に異議申し立てを行い、エジプト、リビアなどいくつかの国で体制転換が実現した
(リビアは軍事介入もあった ので、あまり褒められた形とはいえないが)
。その意味で今年は激動の1年だった。1989年ほどではないとしても、2011年は間違いなく 歴史の転換点として刻まれることになるだろう。
国内に関していえば、2011年は既存の支配体制が不可逆的な崩壊過程に入った年として間違いないように思う。特に福島原発事故は日本国内で誰も勝者が いない全面敗北といえる事態であるが、その中でも最大の敗者となったのが「メディア」と「科学界」である。この両方を一度に取り上げるほどの筆力は筆者に はないので、今回は科学界に的を絞って、彼らに「総括」を迫りたいと思っている。
●「科学者」というだけで街を歩けない
「ただちに健康に影響はない」「プルトニウムは飲んでも安全。重いので遠くには飛びません」「年間100ミリシーベルトまでなら被曝による有意なガン発 生率の上昇は見られない。マスクもする必要はありません。みんなが信じてくれるのだったら、
(自分の孫を飯舘村で泥遊び させるくらいは)
お安い御用だと思います」「セシウムは筋肉に蓄積するが、筋肉はガンにかからないので問題はない」…こうしたばかげた安全 デマが、原発事故直後からこれでもかというほど流された。「ミスター100ミリシーベルト」と呼ばれ、今、福島県立医科大学の副学長として県民健康管理調 査
(という名の事実上の人体実験)
に携わっている長崎出身の学者に至っては、福島県内で発言の整合性を厳 しく問われ、今、原発のある浜通りでは「街を歩けない」と言われるほど住民の怒りを引き起こしている。最後の発言をした御用学者は首都大学東京の教授で、 自分の過去の発言を忘れたかのように、今なお国内某大手企業が生産している線量計の「監修」をしている。
こうした犯罪的御用学者の言説は、初めのうち御用メディアを通じて影響力を持ち得たようだが、放射線の影響に最も敏感な子どもたちを中心に実際に鼻血、 下痢、紫斑など被曝に特有の症状が現れ始めるのを見て、まず母親たちから科学者への疑いが芽生え始めた。福島はじめ首都圏でも母親たちを中心に真実を知り たいという願いが強まった。そんなとき、科学界はどのように行動したのか。
●「俺が安全と言っているから安全」を押しつけるカルト宗教
結果からいえば、母親たちの願いに科学界は全く応えなかった。数字やデータも示さず、無根拠に「安全だから信じろ」という傲慢な姿勢に終始したのであ る。
こんな指摘をすると、「数字は出している」という反論が出るかもしれない。しかし、計画的避難区域となった飯舘村出身でみずからも避難者となり、「負け ねど飯舘」プロジェクトの実行委員をしている佐藤健太さんは「放射線医学総合研究所(放医研)でホールボディーカウンター(内部被曝を検査する装置)の検 査を受けたら、大丈夫といわれるだけで数値による結果は開示されなかった」と語っている。福島現地で生活していると、この手の話はごろごろ転がっている。
原子力村を中心とした傲慢きわまりない自称「学者たち」に対し、当コラムは強く警告しなければならないが、母親たちは「お前が安全と思うかどうか」のく だらない見解など求めていない。具体的に、どの程度の被曝をすれば誰にどの程度の影響があるのか。全員に等しく影響が出るのでないとすれば、晩発障害も含 めた確率的影響はどの程度なのか。そうしたことに関するデータ、判断材料を求めているのである。県民は何を食べ、何を食べるべきでないのか。子どもを避難 させるべきかどうか、それを基に判断したいのだ。
本来なら、そうしたデータは住民に言われなくても政府・自治体・東京電力がみずから開示すべきであるが、彼らにそれを期待できない以上、学者が住民の側 に立ち、政府・自治体・東電との橋渡しを担わなければならなかった。だが、原子力マネーに買収された科学界はその役割に応える意思すら全く見せなかった。
根拠も示さず「俺たち専門家が安全と言っているのだから、何も知らない愚民は黙って言うことを聞け」というのが「科学」だというなら、それはカルト宗教 と同じである。筆者はそのようなカルトまがいの自称「科学」を断固として拒否する。将来を担う子どもたちのためにも、日本の総力を挙げて彼らを解体すべき だ。
●市民科学への胎動
2011年11月4日、NHK「特報首都圏」は「“科学不信”動き出した市民たち」と題する特集番組を放送した。政府、電力会社、科学者をすべて信じら れなくなった女性たちを中心に、高木学校への講演依頼が急増しているというのである。
高木学校は、市民のための科学を唱え、1990年代からプルトニウムの危険性を訴えるなど一貫して反原発の立場で活動を続けた学者、高木仁三郎(故人) の業績を残し、伝えるため設立された団体である。高木仁三郎はこのような言葉を私たちに遺している――「科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代 時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者 の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者達は、まず市民の不安を共有するところから始めるべきだ。そうでな くては、たとえいかに理科教育に工夫を施してみても若者達の“理科離れ”はいっそう進み、社会(市民)の支持を失った科学は活力を失うであろう」
まるで今日の事態を正確に予言していたかのようである。あまりに閉鎖的で、批判も多様な意見も受け入れず、ハリネズミのように凝り固まって狭い共同体の 維持に汲々とする原子力村。そこからいずれ取り返しのつかない事故が起きるであろうことが、高木にははっきり見えていたのだ。
今、高木学校への講演依頼がとりわけ女性から急増しているという事実は、「御用科学」の全面敗北を意味している。自覚的な市民の多くは、すでにそのこと に気付いているが、困ったことに当の科学界だけがいまなお自分たちの敗北に全く気付いていない。多くの国民が敗北を覚悟し始めてもなお、軍部だけが敗北を 認めようとしなかったあの戦争の時と同じである。彼らに敗北の事実を認識させ、科学界全体として日本と世界の市民に対する謝罪と賠償を要求していくことが 必要であろう。
責任は私たち市民の側にもある。御用科学に対抗できる文化としての市民科学を作り、育成する努力を怠ってきたことだ。高木学校のように、いつも市民や社 会的弱者の目線で事実を見ながら、彼らと寄り添い対話を続ける。そのような新しい時代の科学を確立し、育てていくことが今後の課題であることは間違いな い。
(2011年12月25日 「地域と労働運動」第135号掲載)
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