「なぜ福島に住み続けるの? 避難するべきだと思う」と本当のことを
知っている人は言う。私もそう思うがそれができない(しない)のには二つの理由がある。 一つは現実的に無理だということ。多額の借金を抱え、自営業の基盤がここにあり避難したらどうして生活して行くのかすべがないというのが最も大きな理由 である。中通り、浜通りの県民の多くは放射能という得体の知れないものに大きな恐怖を抱いている。避難できるものなら避難したいと考えているはずだが、避 難してどうやって生活して行くのか? 避難指示区域などを除いては保証金は出ないに等しい。国が生活の面倒を見てくれると言うなら多くの人が避難を選択す るだろう。お金の余裕があり、避難先、仕事のこと、子供の学校のことなどすべてを自分で判断し、可能なわずかな人だけが避難しているにすぎない。避難した いと思っても避難できない大きな現実がある。 そして故郷を離れがたい思いも大きい。長年住み慣れた土地を離れるのは耐え難い苦痛を伴う。都会の方にはけして理解できない執着がある。農村部ではその 思いはさらに大きい。農村部から農村部に移れるのならまだしも、避難先はほとんどが都会でしかない。避難すべきだと思っていてもいざ離れる決心がつく人は 多くは無い。 もう一つの大きな理由は「何」から逃げるのか? という疑問である。 確かに自分の健康や家族、子供の健康に影響を及ぼす放射能からは逃げるべきなのだろう。だがどこに安住の地が約束されているというのだろうか。 66年前までこの国は戦争をしていた。東京は焼野原となり、広島、長崎には原爆が落とされ、沖縄の人達は地獄を見た。敗戦が平和で幸せな暮らしをもたら すはずだったのに水俣をはじめとする公害や薬害、原発という麻薬に蝕まれた貧しい農村・・・いったいどれだけの人間が得体の知れない不条理に翻弄され無念 の涙を流したことだろう。世界に目を転じても同じこと、この国も世界も余りにも多くの不条理に満ち溢れているのだ。 避難することで放射能からは逃げることができる。けれどもこの国からも、この世界からもけして逃げることはできない。私は諦めで不条理を受け入れるので なく、不条理を不条理として受け止めそこから何を見出すことができるのかという視点でこれからを生きて行こうと思う。 チェルノブイリ原発の避難区域に住み続けるアレクセイの暮らしを追った「アレクセイと泉」という本があった。行き場所の無い一市民の悲しみを追ったもの だと長い間思っていた。けれども今は違う気がしてならない。不条理を受け止める生き方が人間の尊厳に大きな意味を持つと思えてならない。 |