松 川 の 塔
1949年8月17日午前3時9分、この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線顛覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。 何者かが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。 どうしてかかる事件が起ったか。 朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上った。 その機先を制するように、何者の陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車顛覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに 新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者は出はなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。 この列車顛覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労組員10名、合せて 20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階 層を超え、思想を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大き さは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。 かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。 人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。 |