松川事件60年の今年、事件現場を歩く

 戦後国鉄3大怪事件といわれた下山・三鷹・松川事件。戦後の民主化を背景に高揚する労働運動に打撃を与えたこれら事件の発生は1949年であり、今年は 60周年に当たる。関係者も高齢化し、事件当時20歳代だった元被告も今や80歳代だ。迷宮入りしたまま終わったこれら事件の真相に迫ることのできる最後 のチャンスというべきだろう。

 事件発生60周年を機に、私は地元・福島にある松川事件の現場を歩いた。


●松川事件とは

 古い事件なので、まずは松川事件の概要から振り返ることにしよう。

 戦後の民主化によって、国有鉄道には日本最強の労働運動が生まれたが、一方で弾圧も激しくなった。占領軍・マッカーサー元帥の意を受けたポツダム政令 201号(注)によって官公労働者のスト権が奪われ、日本政府・占領軍当局は行政機関職員定員法(総定員法)を制定。国鉄は9万5千人の削減が義務づけら れ、大量首切りが避けられない情勢にあった。

 1949年、このような緊迫した情勢の中で運輸省の現業部門が公共企業体として独立し、日本国有鉄道が発足。初代総裁の下山定則が轢死体で発見される下 山事件、三鷹駅で列車が暴走する三鷹事件(7月)が発生した1949年夏は、血塗られた謀略の夏の様相を呈していた。松川事件はこの1ヶ月後の8月17日 に発生。東北本線・金谷川〜松川間で列車が転覆し、乗務員3人が死亡した。

 <写真>松川事件の現場

 この事件では国労福島支部、東芝松川工場(現・北芝電機)労組の共産党員を中心に20人が逮捕・起訴され、第1審(福島地裁)は死刑5人を含む全員有罪 の判決。第2審(仙台高裁)は3人が無罪となったものの、死刑4人を含む17人が有罪。17人が上告して最高裁で争われる頃には国内はもとより、ソ連から を含む国際的支援活動も活発となった。最高裁は、7対5の僅差で1・2審を破棄して仙台高裁へ審理を差し戻し。差し戻し審となった仙台高裁で1961年、 ついに17人全員が無罪判決となった。懲りない検察側はそれでも最高裁へ上告するが、1963年9月12日、検察側の上告棄却。第2審で無罪となった3人 を含め、これで被告20名全員の無罪が確定した。

 下山、三鷹と合わせた「戦後国鉄三大怪事件」は、労働運動と共産党に打撃を与えるために占領軍当局が仕組んだ謀略との説も未だに根強く、松川事件でも、 事件現場で直後に大柄の外国人を見たという証言も寄せられた。占領時代、存在は公式に確認されなかったものの、今では存在した可能性が高いと考えられてい る占領軍当局の秘密諜報組織(通称「キャノン機関」)の関与が噂された時期もある。結局、占領下という特殊条件で治外法権の壁は厚く、真犯人はわからない まま松川事件は迷宮入りしたが、事件の経過と裁判を見る限り、仕組まれた戦後最大のえん罪事件だったといえる。


●事件現場を歩く

 2009年7月12日、私は松川事件の現場を歩いた。現場のおおよその位置は頭に入っているつもりだったが、実際に出かけてみると、なかなか現場の位置 がわからず、また場所判明後も現場にどうやったら近づけるのかわからず難渋したが、ようやく現場につながる未舗装の道を見つけることができた。

<写真>事件現場に立つ「殉職之碑」
 事件現場には「殉職之碑」が立っていた。亡くなった乗務員が殉職として祀られていることは、唯一の救いだ。

<写真>JR東労組が建立した碑。線路脇に立つ

<写真>松川記念塔公園

 事件現場のすぐ脇に「松川記念塔公園」がある。この公園は、被告らの無罪確定30周年を記念して1993年、「松川運動記念会」が設置したものだ。「こ の公園は、無罪確定30周年の1993年9月12日、全国から寄せられた募金をもとに開かれた。松川運動は、人民大衆の団結と不屈の闘いこそが、権力の弾 圧、政治と司法の反動を克服する唯一の力であることを示している。この教訓を永く後世に伝えるため、記念塔を中心につくられたのがこの公園である」との記 述が看板にあった。

<写真>記念塔

 松川記念塔。やや長くなるが、書かれている内容をここに示しておこう。

松 川 の 塔

 1949年8月17日午前3時9分、この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線顛覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。

 何者かが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。

 どうしてかかる事件が起ったか。

 朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上った。

 その機先を制するように、何者の陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車顛覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに 新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者は出はなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。

 この列車顛覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労組員10名、合せて 20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階 層を超え、思想を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大き さは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。

 かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。

 人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。


●真相究明の動き

 事件発生から60年。20名の元被告のうちすでに半数以上が他界した。真相究明に向けた最後のチャンスともいうべき今年、福島県では、元被告らの獄中か らの訴えと文化人らの手紙を収録した『真実は壁を透して』の記念出版が行われるほか、10月には「松川事件発生60周年記念全国集会」が開かれる。

 記念出版の中心になった元被告の阿部市次さん(85)=元車掌=は、「20代30代の人たちは松川事件を歴史としてしか見ていない。生きている限りは自 分の体験したことをみんなに伝えていくことは当然だ。えん罪で苦しんでいる人が全国にいる。自分たちの力で真実を取り戻すという闘いは今の時代とくに大切 ではないか」と語る。身をもってえん罪を経験したその言葉は、足利事件のように今なおえん罪が続く日本社会に響く警鐘である。
事件現場近くにある福島大学は、学内に「松川研究室」を設け、支援者などから寄贈された資料など10万点以上を保存しながらこの事件の研究を続ける。松川研究室専任として資料の収集保管や研究に当たっているのは退官したOBの伊部正之名誉教授だ。

 「えん罪というのは民主主義の否定だ。確かに被告らは無罪になったが、真犯人が出てこないことで世間の何割かは疑いの目で見ている。被告らの人権を回復したい」と伊部教授は真相究明への意欲を語る。


●「戦後史の闇」でいいのか

 侵略戦争と敗戦から、民主化と東西冷戦を背景とした「逆コース」という複雑な時代。その時代に翻弄されながら、えん罪の中を生きた20人の被告たち。単 に時代と片付けてはならない。戦後史の闇は解明されなければならないし、えん罪が生まれた背景を検証し、政治的思惑で動いた者たちの巨悪は断罪しなければ ならないと思う。

  戦後労働運動のリーダー的存在だった国労に仕掛けられた最初の攻撃が「国鉄戦後三大怪事件」であるとすれば、1987年の国鉄解体、1047名解雇はそれ に劣らない巨大な敵の攻撃である。2つの国労攻撃を連続する歴史としてしっかりつないでいくことは、国鉄闘争にとっても大きな力になるに違いない。


<お知らせ>
 記念出版『真実は壁を透して』は8月17日発行され、頒価1500円。松川記念集会は、10月17日、18日の2日間。問い合わせは、024(522)7368(国民救援会福島県本部)へ。

(注)ポツダム政令とは
 敗戦によって、日本政府は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」と題した勅令を制定した。旧帝国憲法の下でも、国民の権利を制限したり、新 たに義務を課する場合は法律によらなければならなかったが、この勅令は、占領軍当局からの要求があった場合には、政府が勅令(日本国憲法施行後は政令)に よって権利を制限したり、義務を課する内容を定めることができるとするものだった。「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいて制定され た勅令・政令はポツダム勅令・ポツダム政令と呼ばれるが、官公労働者のスト権を奪った昭和23年政令201号(正式名称は「1948(昭和23)年7月 22日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」)もこのポツダム政令のひとつである。占領下という特殊事情にあったとはいえ、 官公労働者の労働基本権のひとつであるスト権を、国会の議決によらず政令1本で奪い去ったことはもちろん違法であり批判は免れないものである。

 なお、ポツダム政令は、サンフランシスコ講和条約の効力発生の日(1952年4月28日)から180日以内に法律としての存続または廃止のいずれかの措 置をとらなければならないこととされており、存続・廃止のいずれの措置も行われないものはその後全て失効することになっていた。政令第201号はその後廃 止されたが、ほぼ同じ内容(公務員のスト禁止)が国家公務員法、地方公務員法、国営企業労働関係法(その後の公共企業体等労働関係法)、地方公営企業労働 関係法に盛り込まれ現在に至っている。ちなみに、このとき存続が国会で議決され、法律として生まれ変わったポツダム政令のうち、もっとも有名なものが出入 国管理令(現在の出入国管理及び難民認定法)である。


(2009年8月29日 「地域と労働運動」第107号掲載)

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